表現手法

映画『アラビアのロレンス』で、手に持ったマッチの火をピーター・オトゥールがフッと消した瞬間、画面が砂漠に切り替わるというシーンがあった。確かDVDの解説の中で「これはヌーベルバーグの影響で…」と語られていたような気がする。私はこの手法をなんというか知らない。のだけれど、映像の切り替えによって受けた感覚がなんだか独特のものだったから、ちょっと印象に残った。うまく例えられないけど、床に落としてただ単に弾むだけだと思っていたボールが、パンっと花束に変身してしまったようなイメージ。

それにしても、ヌーベルバーグ以前にはこの独特の感覚を感じてた人はいなかったんだと思うと、何だか不思議な気分だ。感覚を意識的に感じられる人間が、人類発生以来これまでどれくらいの数いたのかしれないのに。もちろん、映像の表現手法というものが、映像メディアがなければ、そして、表現する人間がいなければ成り立たないというのは当たりまえなんだけど。それに、もちろん、この感覚は、他の人とはまったく違う私独自なものかもしれないし、他の視覚的、聴覚的、触覚的な刺激で、似たような感覚を持つ事もあり得るかもしれないんだけれど。

考えてみると、ある感慨を私に与える「手法」というものが、今あきらかにここにあるのに、人類が意識する前はその「手法」は、どこに隠れていたんだろうか、という思いが、私にはあるみたいだ。マッチを消した瞬間に砂漠の風景になる…「ある動きの結末が来ると同時に、それが、他の全く別のものに置き換わる」というような、手法の法則はあるのに。その法則はヌーベルバーグが掘り起こすまで、どこにいたんだろう。どこにも無かったんだろうか。


これは、例えば、「美の法則は、人間がいなくてもあり得るか」というような話に似ているのか。少し次元が違うだろうか。