『生きた貨幣』

生きた貨幣

生きた貨幣


本文は難解、私にはほとんどチンプンカンプン。訳者による内容見取り図に救われる。以下は、訳者解説で気になった部分の、自分なり消化作業。


クロソウスキーが本書で使う「ファンタスム」という言葉は、性的欲望の目標先が、本来の生殖から逸れて倒錯に向かった時に、それが欲望の対象として作り上げたものを言う。これは、“わたし”や“あなた”のような、一つの主体が作り上げた交換不可なものらしい。また、「シミュラークル」とは「ファンタスムを模倣したもの」「ファンタスムの等価物」。先に書いたように、ファンタスムは交換不可能なものであるので、これを他者とやり取りする時に使われるのが「シミュラークル」である。(たとえば芸術作品のように)

●「手工業的体制」と「産業的体制」。前者は「三代まえからある家庭で使われているぼろぼろのテーブル」のように、対象物がそれ自体として価値を持っていて、その家族にとっては意味があるが他の家族にとっては無価値であるような、交換・交流の回路が限定的である体制。後者では、モノは「シミュラークル」的性格を帯びていて(つまり元は交換不可能なものを交換できるように模倣していて?)切れないナイフを良く切れるものに次々買い換えていくというように、モノは「効率的対象」となっている。

●「暗示作用」について。これは倒錯した欲望が作り上げたものを、他者と交換可能なものにするために実体化させ(シミュラークル)、それによって倒錯欲望の幻想物(ファンタスム)を暗示させる作用、というような意味でいいんだろうか。(←わたし解釈)「手工業的体制」の時代には、暗示されて立ちのぼってくる情欲や快楽なんかの感覚よりも、モノそのものの方が価値があったが、それが「産業的体制」の時代になると、ステレオタイプの製品が大量生産され、すなわちステレオタイプの暗示作用が大量に生み出され、『結果、製品そのものよりも、それによってもたらされる感覚のほうが高い価値を持つようになった』。

●個人の統一性と、無数快楽の享受は相対するもの。自転車を例にすれば、その使用目的を「早く楽に移動する事」のみにすれば、使う人間はあれこれ妄想を働かせて分裂することなしに、個人の統一性は保たれる。対して、『メタリックな輝きやサドルの柔らかさや、少しかがんだ乗り手の姿勢』等、倒錯した感覚を自転車に対して発揮する場合、その感じ方は無限であり、統一性はおびやかされる。