エドワード・W・サイード『知識人とは何か』より

女性と小説について講演を依頼された(ヴァージニア・)ウルフは、最初こう考える。結論は決まっている−女性は、もし小説を書こうとするなら、お金と自分自身の部屋をもたねばならない。ただ実際に講演するとなると、この結論を述べてそれで終わりにはならず、この結論というか命題をふくらませて、整合的な議論を組みたてねばならない。そのため彼女は、つぎのような方法をとる。「人ができるのはただ、なんであれ、自分のいだいている意見を、自分はどのようにして、いだくようになったのかをつまびらかにすることだけである」。自分の議論の楽屋裏をさらけだすことは、ウルフによると、いきなり真実をしゃべることとは異なる行為である。おまけに、ことが男女の問題になると、結論をだそうものなら、かならず論争になってしまう。そこで、「聴衆のひとりひとりが自分の手で結論を導きだせるようなチャンスを、聴衆にあたえるにこしたことはない。そのためにも、聴衆に、語り手の限界や、語り手がいだく偏見や個人的嗜好をとくと観察してもらうのだ」。

物語の描き方っていろいろあると思うけど、登場人物がどんな気持ちでいるかばかりを書いてるものよりも、その人がどんな背景を持って、どんな道をたどってきたかを丹念に伝えてくれてるもののほうが、その人物の想いに入り込みやすい。流れを追ううちに、読んでるこちらがその人の心情に寄り添っていけるから。上の引用は講演の語り方について書かれたものだけど、読んでたら、自分が前にそうゆう事を考えてたのを思い出した。