ドイツ30年戦争 メモ3

◎第三幕【スウェーデン戦争】(1630〜1635)
本国スウェーデンにて革新的な徴兵制・火器の軽量化を進めていたグスタフ・アドルフ王は、バルト海制海権を狙う神聖ローマ帝国征伐の為、自信まんまんで海を渡ってやってきた。資金源は、スペイン・ハプスブルク家の権力拡大に危惧を抱いていた、カトリックの国・フランス。

グスタフ・アドルフは上陸後、得意の機動性で快進撃を続け、戦線となるマクデブルクにて皇帝軍とにらみ合う。グスタフ・アドルフ王は中立の立場にいたプロテスタント選定侯に助力を願うが、それはすげなく拒絶。一方のフェルディナント皇帝軍はヴァレンシュタイン罷免の後、ティリーを隊長にすえていた。焦ったティリーは、マクデブルクを包囲、総攻撃をしかける。グスタフ・アドルフはこれを見送る。

傭兵は略奪す。個人は敬虔なカトリック信者だったティリーも、自軍傭兵部隊の残虐行為を押さえる事ができず、マクデブルクの住民を1/6にまで減らしてしまう。この惨劇をうけ、それまで中立を保ってきたプロテスタント選定侯らも、グスタフ・アドルフと同盟を結ぶ。

1631年、ブライテンフェルトの会戦。伝統的布陣を敷くティリーに対し、大砲を活用した斬新な戦法で敵の度胆をぬくグスタフ・アドルフ。結果、プロテスタント軍は、30年戦争中、初の勝利を掴む。続くレッヒ会戦にてティリーは命を落とし、皇帝は慌ててボヘミヤのヴァレンシュタインを呼び戻す。野心を抱くヴァレンシュタインは帝から和平交渉権や条約締結権などの特権を引出し、皇帝軍総司令官へと復帰。

その後の会戦にもスウェーデン軍は勝利するが、戦いのさなか、王グスタフ・アドルフは死去する。享年37歳。わずか2週間後、戦争を引き起こした張本人、フリードリッヒ5世もペストに罹り死亡。36歳。

グスタフ・アドルフ王亡き後、スウェーデン軍は宰相ウクセンシェルナが引き継いだ。和平交渉権を手にしていたヴァレンシュタインは、スウェーデン、フランスなどと秘密裏の交渉を始める。ボヘミア王位と引き換えにヴァレンシュタインを皇帝から離反させようという動きもあり、フェルディナントは、彼をまたもや罷免、暗殺の指令を出す。1634年、ヴァレンシュタインボヘミアにて死去。

この年、スペインが参戦。カリスマ隊長グスタフ・アドルフなきスウェーデン軍は戦力を落とし、アウクスブルク郊外ネルトリンゲンの会戦では大敗を喫す。皇帝軍を指揮した新総司令官は皇帝の嫡男、フェルディナント3世。オヤジ、大喜び。

スペイン・皇帝の軍は、ドイツ国内各地を次々と制圧、陥落。観念した大部分の諸侯は、回復令の撤回などが盛り込まれたプラハ条約をのみ、皇帝と和議を結ぶ。

さて、ちょっと時間を巻き戻して1630年、最初のヴァレンシュタイン解任事件の折、フェルディナント3世のローマ王選出は棚上げされていた*1。しかし4年後、ヴァレンシュタインが暗殺され新総司令官の座にフェルディナント3世がつく。後の快勝がものをいい、各侯もハプスブルク皇太子の帝位継承を認め、1636年、フェルディナント3世はローマ王に即位。しかし喜びもつかの間、数週間後にはフェルディナント2世崩御

*1:【フェルディナント3世のローマ王選出棚上げ】この時、選定侯たちは皇帝嫡男のローマ王選出とひきかえに、フェルディナント2世に傭兵隊長罷免を迫っていた。そもそも、皇帝の息子はオーストリアハプスブルク家の皇太子ではあるが、そのままでは帝国の皇太子(=ローマ王)とは認められない。皇帝同様、あくまでも選挙により決定される。選定侯たちは、ヴァレンシュタインが軍から退かない限り、ローマ王選出はありえないと皇帝に詰め寄った。フェルディナントは折れ、ヴァレンシュタインボヘミアへ。しかし、この時、二枚舌選定侯は言葉をたがえ、ローマ王を選出せずに終わっている。